イージー・リスニングでも取り上げられることの多い“Che sarà / ケ・サラ”。日本でも多くの歌手がレコーディングし、あるいはコンサートで披露し、歌声喫茶(って知ってますか?)でもよく歌われてきた作品です。1971年に開催されたサンレモ音楽祭の参加曲で2位となったものの、すぐさま1位になった曲を蹴散らしてヨーロッパ中でヒットした、というエピソードをご存じの方も多いでしょう。この曲の歌詞をGoogle先生に翻訳してもらったところ、だいたいこんな感じでした。

 [1番] 丘の上にある私の祖国にはなにもない。私は国を捨てて出て行く。
   私の人生はどうなるか。明日になればわかる。なるようになる。
 [2番] 友達も出て行った。私の後に出て行く者もいる。全ては終わった。
   私の人生はどうなるか。夜に泣いたらギターで祖国の子守歌を歌おう。
 [3番] 愛しい人。キスをするよ。でもいつかは戻ってくることだけはわかる。
   私の人生はどうなるか。明日になればわかる。なるようになる

 そもそも “Che sarà” は直訳すると「どうなるだろうか」という意味のようですので、ここでは「どうにかなるさ」というような楽観的な気分よりは「これからどうなるのか」「なるようにしかならない」というニュアンスの方が強いように感じます。“Ricchi e Poveri / リッキとポヴェリ(「金持ちと貧乏人」という意味)” という男女2人ずつで構成されるグループが歌う同曲のイントロも、望郷の念を抱いているかのような素朴な雰囲気が感じられます。

●Che sarà:Ricchi e Poveri / リッキとポヴェリ

 当時のサンレモ音楽祭は同じ曲を2組の歌手が歌うことになっていました。ひと組目はもちろんRCAイタリア所属でオリジナル歌手である、ジェノバ出身の “Ricchi e Poveri / リッキとポヴェリ” です。もう一組をどうするか。まず、この曲の作曲者であるジミー・フォンタナに歌ってもらうという選択肢があったはずです。彼はサンレモ音楽祭に出場した経験に加え、1965年に「イル・モンド」という作品でイタリアのヒットパレードで1位を取ったこともあり、しかもRCAイタリア所属だったからです。しかし、RCAイタリアはRCAアメリカから盲目の歌手 “José Feliciano / ホセ・フェリシアーノ” を招き、ギターの弾き語りで歌ってもらうことにしました。彼がサンレモ音楽祭で歌う姿がYouTubeに上がっていますが、ギターひとつで故郷を後にしてきたような雰囲気を漂わせています。そりゃそうです、彼は5歳でプエルトリコから出てきてニューヨークに移住するという、歌詞そのものの人生を送ってきたわけですから。しかし、残念ながら「ケ・サラ」は惜しくも2位に終わります。”Nicola Di Bari / ニコラ・ディ・バリ” と “Nada / ナーダ” が歌った ”Il Cuore è Uno Zingaro / 恋のジプシー” に敗れてしまったのです。
 しかし2位だった「ケ・サラ」は、ホセ・フェリシアーノがイタリア語に加えスペイン語や英語で歌ったレコードも発売されたことでヨーロッパ中で大ヒットしました。特にスペイン語圏でヒットしたのは、ホセ・フェリシアーノと同じような境遇の人が多かったからと言われています。

●Che sarà:José Feliciano / ホセ・フェリシアーノ

 フランスでは「フィーリング」「いつわりの涙」などで知られるマイク・ブラントが “Qui Saura” として歌ったこともあり、フランスのイージー・リスニング界でも、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、レイモン・ルフェーヴル、カラベリ、リチャード・クレイダーマン、クロード・チアリ、ジョルジュ・ジューバンなどが取り上げています。一方で、母国の音楽を大切にしてきたニニ・ロッソはなぜか演奏してないようです。レコーディングのタイミングを逸してしまったのかもしれません。
 “Qui Saura” は直訳すると「誰が知っているのだろうか」という意味で、歌詞の内容は「彼女なしに僕は幸せにはなれない。僕の悲しみは癒やされることはない。僕が生きるための唯一の理由って何なのか教えてくれよ。そのことを誰がわかるのか。」とまあ、そんな失恋の傷心を歌った詞なのです。それをイスラエル出身のエキゾチックなイケメンが歌うのですから、「私がいるわよ、わ・た・し!」と、若い女性はメロメロだったことでしょう。そんなこともあり、1972年3月にはフランス月間ヒットチャートの1位となります。

●Qui Saura:Mike Brant / マイク・ブラント

 ここで「あれ?」と思った方、するどい。サンレモ音楽祭が開催されたのは1971年2月のことです。マイク・ブラントが曲を発表するまでに1年も差があるのです。そうすると、もしフランスのイージー・リスニングの巨匠たちの録音のタイミングが違えば、オーケストレーションの基になった曲が異なることになり、当然、歌詞も念頭に置いて編曲したのであれば、それは演奏にも違いとして現れてくることになります。
 まず、ポール・モーリア。彼が「ケ・サラ」を取り上げたのは1971年録音の『雪が降る』のアルバムですから、マイク・ブラントの歌を基に編曲したのではないことは明らかです。つまり、完全に「故郷を後に旅立つ若者の歌」としてオーケストレーションしているわけで、最後の部分では明るい希望に向けて向かっていくイメージさえ感じ取れます。さすが、世界のレコード市場を自身のビジネス・ターゲットに据えているだけあって、ここらへんの感覚は素早く鋭いです。
 次にフランク・プゥルセルはと言うと、1972年に発売された”Amour Dance et Violons Vol.42 Une Belle Histoire”のアルバムで「ケ・サラ」を取り上げています。そのアルバム・タイトル曲である ”Une Belle Histoire / 愛の歴史(Mr.サマータイム)” はミシェル・フュガンのヒット曲で1972年9月にヒット・チャートの1位を記録していますので、この頃の録音でしょう。ハーモニカが孤独な一人旅を連想させますが、バックで演奏されるピアノでのリズムの刻み方がマイク・ブラントの伴奏を基にしているように思えます。そして、これをもっと素直にマイク・ブラントに寄せて編曲したのがカラベリの演奏ですね。

●Qui Saura:Franck Pourcel / フランク・プゥルセル

 そしてルフェーヴルですが、「ケ・サラ」が収録され1972年に発売された”Raymond Lefèvre Et Son Grand Orchestre N°15”のアルバムに、その6月にフランスのチャートで1位となったC.Jérôme / シャルル・ジェロームの “Kiss Me / キス・ミー” が入っていて「愛の歴史」が入っていませんので、プゥルセルより少し前の録音ではありますが1972年の録音であることは間違いないでしょう。シングル盤も出てないようですし、当時のルフェーヴルの多忙振りを考えると「ケ・サラ」1曲のために1971年に特別録音をおこなったとは考えにくいです。ルフェーヴルの演奏は、ルフェーヴル独自の裏メロディーが主旋律とハーモニーを織り成すような編曲で、放浪の旅にも失恋の傷みとかにも寄せるのではなく、メロディの良さを生かすことに主眼を置いた演奏だと思います。

●Qui Saura:Raymond Lefèvre / レイモン・ルフェーヴル

実はリッキとポヴェリによって歌われる本家版とホセ・フェリシアーノ版を比較すると、いくつかの違いがあります。

(1)サビの部分 ”Che sarà, che sarà, che sarà?” の最後の ”sarà?” の部分が、リッキとポヴェリは「ケサラアア」と歌っているのに対してホセ・フェリシアーノは「ケサラ~」と歌っている。
(2)同じ ”sarà?” の部分で、ホセ・フェリシアーノは「D→F#m」と途中でコードを変えて伴奏している。
(3)ホセ・フェリシアーノは1番→3番→2番と歌っている。(詩の流れとしては、こちらの方が自然)
(4)リッキとポヴェリは「夜に泣いたらギターで祖国の子守歌を歌おう。」の歌詞は2番の後半の1回しか歌わないが、ホセ・フェリシアーノは2番と3番の後半で歌い、最後の繰り返しでも歌っている。

 ちなみに作曲者であるジミー・フォンタナの場合、1981年にリリースした"Il Mondo Di Jimmy Fontana"というアルバムに収録されているものがどうやら初回録音っぽいのですが、その際(1)(3)がホセ・フェリシアーノ版準拠で(2)(4)がリッキとポヴェリ版準拠で歌っていて、1996年の再録音では(2)もホセ・フェリシアーノ版準拠になっています。このように、多くのアーティストはホセ・フェリシアーノの歌い方やコード進行を踏襲しました。ホセ・フェリシアーノは、2位となってしまった曲の真価を見抜き、原石だったダイヤモンドを磨いて宝石に変え世界中に広めたわけです。その結果として、作曲者のジミー・フォンタナにもイタリアRCAにも莫大な印税収入をもたらしたことでしょう。

●Che sarà:Jimmy Fontana / ジミー・フォンタナ

 これは全くの余談なのですが、ポール・モーリアは「ケ・サラ」に関して、少なくとも3つのミキシング違いバージョンが日本で発売されています。ミキシングを変えることにより生まれる微妙な表現の違いを研究するのに最適な素材だったのでしょうか。

(1)LP『雪が降る』に収録
 ハープなしでマリンバの音色が聞き取れる。全体的にエコーが深い。
(2)LP『青春の詩情』に収録
 ハープ入り。2:04あたりからのチェンバロがはっきり聞こえる。
(3)2012年の復刻版CDで初公開
 ハープ入り。どの楽器もオン・マイク気味でエコー少なめ。2:04あたりからのチェンバロ聞こえない。

 ついでに言うと(1)と同じLPに収録された「恋のジプシー」も2つのバージョンがあります。この1971年のサンレモ音楽祭の結果については、ポール・モーリア自身が相当注目していたのかもしれません。

●Che sarà:Paul Mauriat / ポール・モーリア

 日本では岩谷時子さんの訳詞で知られていいて「平和で美しい国 信じ合える人ばかり」という歌詞で始まります。原曲ではそんな表現は全く出てきませんし、訳詞には国を出て行くという表現もでてきませんが、「なんとかなるさ」という楽観視ではなく「人生手探り」と歌われていて意図するところは近いところにあると思います。一方、これとは別に反戦歌のような日本語歌詞もあるようです。もちろん「マイ・ウエイ」だって、クロード・フランソワが歌った内容とは全く違う歌詞にしたことで世界の名曲になったのですから、歌詞の内容がかけ離れていること自体が悪いことではありませんが、オリジナルの原曲には実は反戦の意味が含まれているみたいな認識をされてしまっているとしたら、それは残念です。
 この「若者が故郷を捨てて出て行く」という歌詞が生まれた背景について、ナポレターナ(ナポリ民謡)を中心にイタリア生まれの曲を歌われている松本淳子さんは以下のように分析してくださいました。「1960年代後半から若者文化は大きく変化し、また、ヒッピー的な放浪の旅に憧れるような風潮も生まれてきました。一方で、TV番組『イタリアの小さな村』に出てくるような村は、昔からの生活スタイルを変えず、ちょっと憧れるようなのどかで素敵な暮らしぶりです。でも、それは都会人の中高年層からの視点であり、実際にそこに暮らす若者たちにとってみれば、自分のこの先の人生が見えてしまっているということになります。若い人たちが未来を強く意識するようになった時代だからこそ生まれた歌なのかもしれません。」